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カメラと子育てと街歩き

三島由紀夫の潮騒の感想が変わった

八月、三島由紀夫を三冊読んだ。
潮騒、沈める滝、宴のあとだ。

潮騒を初めて読んだのは大学2年の頃だ。
当時は同氏の仮面の告白金閣寺などの超越的な観念小説に傾倒していたから、潮騒の平易なストーリー展開と卑近なテーマ設定を軽くみていた。
これは三島文学ではない、女性誌の連載小説だ。と思っていた。

この構図を分かりやすく言えば、電気グルーヴのファンが大衆受けしたシャングリラを軽く見るようなものだ。
クラシックファンがパッヘルベルのカノンをクラシックと見ないようなものだ。
歴史家が戦国時代・幕末好きを相手にしないようなものだ。
第一次近衛声明みたいなものだ。

初読から10年近くたち、今年の夏に再読してみたところ、感想は変わった。
実に読みやすくて分かりやすい。
これは10年前と同じ感想だ。
ただし、10年前は否定的であったそれらの要素が、肯定的に受け取った。

文章は難解であればあるほどいい。ストーリーは卑近であってはいけない、崇高でなければならない。
それが純文学だ。
10年前はそう考えていた。

潮騒は他の三島小説に比べて、平易な文章で書かれており、読みやすい。
正宗白鳥吉本ばななくらいの差だ。
そして観念的な表現が少なく、理解しやすい。
小林秀雄新保祐司くらいの差だ。

これらの要素を肯定的に受け取った理由は、今年の夏に潮騒の舞台である神島にいったためだと思う。
だから再読していて否応なしに具体的に情景が浮かび、楽しめた。
あと、私自身が大人になって捉え方が変化したということだろう。
どう変化したのかは自己分析するのが面倒なのでまだしていない。

ともかく、平易なストーリーへの私の卑小なエゴイズムは発動されなかった。
やわらいだのか。

村上春樹は総じて好きだが、10年前、「国境の南、太陽の東」がとにかく嫌いだった。
読んでて苛々した。
再読して確認してみようと思った。